『ハトス(注1)の誘惑』
日が沈みだした空に、暗闇が漂う。人気のない静まり返った通り。僕は君が現れるのを待つ。バルコニー(注2)に君の姿。遠くを見つめる儚げな目。
《彼女》「さよなら…」
歌うような透き通った声。でも、それが何を意味しているか、僕は迷った。沈んだ夕日への挨拶?見えない誰かへの言葉?それとも永遠の別れの宣言?
僕はつい最近、ここへ越してきた。生来の旅好きで、一所に留まるのが大の苦手。僕の仕事は外回り(注3)。仲間内には雇い主に雇われて(注4)、安定した楽な生活をしている奴もいるけれど、そんなのは僕の性に合わない。いいターゲットを見つけて、大きな仕事がしたい。しかし、人生は厳しい。旅好きと言ってはいるが、見入りが少なく、住まいを転々としているというのが本当のところ。その僕が、ここに居ついたのは、君と出会ったから。
この界隈(注5)は、警備の厳しい高級住宅街。僕のような流れ者が来れる所ではないが、夜は僕の時間。闇に紛れて潜り込む。この辺りでは最も古い家の前。フェンス越しに君の登場を待つ。
初めて彼女を見たとき、つぶらな瞳にツンとした唇(注6)、小柄な体にふっくらとした胸、細くまっすぐ伸びた足、そして、歌うような美しい声。頭上にいるのは、翼の生えた輝ける天の使い。その姿は一瞬で僕の心を奪った。一目惚れのようなものだったと思う。それ以来毎晩、彼女の姿を一目見ようと僕はここへ通うようになった。
そして、今日が4日目。「さよなら…」の言葉に引き寄せられるかのように、僕はフェンスをひらりと乗り越え、バルコニーの奥の声に耳を澄ました。
《彼女》「私は世間知らず。一人では生きられない。人は私が家に縛られていると言うけれど、立派なお屋敷にいて、守られている今は幸せ。でも、遠い昔のあの記憶。仲の良いお父さんとお母さんに育てられた森の家。貧しかったけれど愛情に溢れていた。今はここにいるのが一番幸せだと分かってはいるけれど、心の奥底に、すぐにでもあそこに飛んでいきたい(注7)という気持ちがある。こんなに恵まれているのだから、記憶の中の父と母に別れを告げなくては。これでいいのよ。」
強い愛情表現の根底には2つの欲望があるという。相手を“縛りたい”という欲望と“縛られたい”という欲望である。世の中の多くの人は、前者に支配されるが、彼女は紛れもなく後者に支配されていた。
実際、僕の見る限り、彼女は一歩も外に出て来ない。時々バルコニーに出て、遠くを眺めながら歌うだけ。むしろ、この家に縛られていることに幸せを見出そうとしている。
「それで、いいわけはない!」僕は叫んでいた。
《彼女》「闇に紛れて聴いていたのは誰?(注8)」
《僕》「名乗る名前はないよ(注9)。君には不釣合いだから。」
《彼女》「そんなことはないわ。危険を冒して、ここまで来たんだから、せめて話し相手になってくれない。」
これをきっかけに、彼女とはいろいろ話をするようになり、毎日通って、すぐに仲良くなった。
彼女は、両親の愛情をいっぱい受けて育った。でも、貧しかったので、両親は娘の将来の幸せを願って、養女に出すことにした。行き先は、ドイツ・シュヴァルツヴァルト(注10)に起原を持つ名家。誠実で、約束を守る信頼できる家系で、伝統的な様式の家に住んでいる。先祖代々信仰が篤く、規則正しい生活と日々の祈りが務めである。何を祈るのかと尋ねたら、世の中の平和を祈るそうだ。部外者との付き合いを禁じ、平和を祈る。信者以外との付き合いを禁じたあの宗教ではないかと思ったが、僕は口に出すのをためらった。彼女との関係が壊れることを恐れたためである。彼女が今が幸せと言っているのだから、それで良いではないか。束縛されたいという愛もあっていいんだ、と僕は自分に言い聞かせた。
実のところ、僕の愛も少し変だという自覚がある。「目に入れても痛くない」という言い回しがある。子どもや孫を溺愛する気持ちを表したものである。僕の場合は、あまりにも好き過ぎると「口に入れたい。食べてしまいたい」という気持ちが強くなる。これも相手を、誰にも渡したくない、自分の体の一部にしたいという究極の独占欲なのかもしれない。実際に食べたりはしないけれど、束縛されたい彼女とはうまくやっていけるかもしれないと考えたりもした。
ひとつ疑問に思うことがあった。僕と話をしているときに、彼女は時々何かに取り付かれたように、ぼんやり遠くを見つめる目をした。僕は思い切って訊いてみた。
《僕》「ぼんやりして、どうしたの」
《彼女》「私、恋をしているの」
《僕》「えっ、誰に?」
《彼女》「まだ、会ったことがないあの方に」
僕の勘は当たっていた。彼女の信仰の対象は例の宗教の教祖。僕は嫉妬を感じて、少し意地悪になった。
《僕》「君は現実を見た方がいいよ。」
《彼女》「どういうこと?」
《僕》「あの噂を聞いたことがないの?出家した人たちは、修行と称して酷い生活をさせられる。働かず、集団で食糧を求めて彷徨うとか(注11)。そんなのに憧れる気が知れないな。在家の君はましな方だよ」
憧れの人を否定されて、彼女は怒った。
《彼女》「何でそんなこと言うの。酷い!あの方を悪く言うなんて。あなたなんか最低!」
《僕》「君はほんとに世間知らずだよ」
思わず口が滑ったことを、僕は後悔した。彼女は俯いていた。泣いていんだと思う。
《彼女》「私だって…、ここから離れて、外の世界を知りたい。こんな生活…、早く終わりにしたいの」
生活に疲れていた僕は、つられて呟いた。
《僕》「僕も終わりにしたいよ。逃げたいよ」
その時、彼女は顔を上げた。いつの間にかニッコリ笑っていた。
彼女:「やっと意見が一致したわね」
僕:「そうみたいだね。僕でいいの?」
彼女:「あなたがいいの。私の手を取って逃げてちょうだい」
ついに、僕たちは、いわゆる“駆け落ち”をすることになった。
とりあえず、二人で住む場所を見つけなければならない。彼女は、稼ぎの少ない僕への気遣いか、「アパートのベランダでいい(注12)」、多分、「ベランダ付きのアパートでいい」の間違いと思うが、そう言ってくれた。僕は、そんなありきたりのことに、喜びを感じた。
開け放った窓から、冷たい風が吹きぬける。ここは、夜の時計博物館。閉館後の換気の時間だ。彼女は鳩時計の鳩。僕は迷い込んだ黒猫。鳩は一度つがいになったら、一生離れられない。好きな夜遊び(注13)も出来なくなる。彼女が僕にとっての教祖様になったことに気付くのは後のことではあるが、今は、警備員の目を盗んで、何とかこの“駆け落ち”を成功させなくてはならない。彼女の手がどこにあるのか、定かではないが、そこは何とかしよう。僕には自信があった。このブラックな身体なら、夜の闇に“沈むように溶けていくように(注14)”、君をくわえて、逃げていけるはず。僕は、今日この『夜に賭/駆ける』。
注1 ハトス【鳩・巣】
注2 バルコニーはウィリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の場面設定。原作では窓となっている。鳩時計の窓でもある。
注3 野良猫なので、外で、自分で餌を見つけること
注4 飼い猫のこと
注5 時計博物館を指している。アンティークの貴重な時計の周りにはフェンスがあり、近づけないようになっている。
注6 鳩のくちばしのこと
注7 鳩の帰巣本能
注8 『ロミオとジュリエット』第2幕、ジュリエットの言葉
注9 『吾輩は猫である』の「吾輩は猫である。名前はまだない」
注10 鳩時計発祥の地。元々はカッコー時計。日本ではカッコーは閑古鳥で「閑古鳥がなく」というマイナスイメージだったため、鳩に変わった。
注11 鳩が公園などで餌を求めて群れをなして行動すること
注12 ベランダは他の野鳥に狙われにくい、鳩にとって巣を作るのによい場所であるため
注13 『夜に駆ける』を演奏する音楽ユニット「YOASOBI」であることから
注14 『夜に駆ける』の冒頭の歌詞